父親だからといって子どもの教育に無関心なわけではない。
我が家はどちらかというと妻がのんびりおっとりした性格なので、家計の管理も、子育ての色々な手続きも、自分が管理している。
実際に色々動かしてくれているのは妻だが、必ず私のチェックがないと、どうにも不安というか、時々とんでもないことをやらかす事もあるので、なかなか安心して任せられなかった。
教育ママでバリバリキリキリやられるのは嫌だったが、子育てにおいてものんびりマイペースだった妻は、自ら積極的に子どもに刺激を与えたり、学習能力を上げるような働きかけをしたりする事があまり無かった。
それゆえかどうか分からないが、うちの息子は周りの子よりもほんの少しだけ発育がゆるやかなスピードだった。
別にそれをとても気にしていたわけではない。
うちはうち。うちの子はうちの子。息子のペースでちゃんと順調に育ってくれれば何の問題もなかった。
ただ、もっと母親が色々なはたらきかけをすれば、また事情が変わってくるとなれば、話は異なってくる。
息子自身の話ではなく、母親の話になるだろう。
それでも、私は妻のおだやかでゆったりと構えているところが好きで一緒になったわけだし、妻の包容力と暖かさと、ある意味でいつも冷静沈着なところに、これまでの人生で何度も救われてきた。
だから、妻の教育方針にとやかく口を出す事もしたくはなかった。
しかし、それでも思ってしまうのだ。
ご近所さんのお母さんたちの会話を聞くと「うちの子は英語を始めた」とか「うちは水泳スクールの体験に」とか「だれそれのお嬢さんがピアノを買ったらしい」とか、そんな話題でもちきりなのだ。
うちには何のうわさも流れてこないが、皆、必死に子どもの教育に熱を上げているらしい。
特に英語に関してはすごかった。
英語が趣味やアドバンテージとして見られていた時代と異なり、今は英語ができなければ始まらない世の中になりつつある。
これからはもっとその色が増してくるだろう。
実際、私自身も社会に出て働き始めて、英語の必要性を痛感した。
企業自体が海外進出があたりまえになってきている中で、英語が中心となる外資系でなくとも、英語は必要なビジネススキルなのだ。
英語とは縁がなく、英語をろくに習わずに、英語はほとんど使わずに定年した世代が羨ましい。
ちょうど自分達の世代は、英語をろくに習わずに、いざ社会に出たら英語を使う機会がいたるところに転がっていた。
これからの世代は、小学生から英語を学び、グローバル社会に飛び立っていくため、教育の礎から見直されてきてはいるものの、やはり日本には「日本にいる限り英語なんてできなくたって困らない」という四方を海に囲まれた島国特有の妙な意識が根強く、ただ普通に生活しているだけでは英語なんて喋れるようにならないのである。
それゆえ、近所のママたちは、どうにかしてわが子に英語力をつけさせようと必死なのだ。
世界に通用する人材を育てよう、海外に出ても困らないように今のうちから力をつけさせよう、と情報収集に余念がない。
のんびりやの妻は「まぁそのうちね」と悠長に構えているが、私は内心かなり焦っていた。
息子もあと1年もすれば幼稚園に通うようになる。何かはじめるなら今しかない、そんな気がしていた。
「プリスクール」という言葉を初めて聞いたのは、たまたま家族そろっていた休日に我が家に遊びに来ていた近所のママさんの会話の中でその単語で飛び出した時だった。
「プリスクール?」
同時に聞き返した私と妻に、ママさんは「えー!知らないの!?」と驚きの声を上げた。
プリスクールとは、未就学児たちが通う保育施設の事なのだが、最大の特徴が、そこでは全ての会話が英語でなされているという事らしい。要は、インターナショナルスクールの幼稚園、保育園バージョンということだ。
保育園よりも幼稚園に近いのかもしれない。
多くのプリスクールはお昼前まで、もしくはお昼ご飯を食べてから1~2時間程度までしか預けられない。その時間になったら親が迎えにいかなければならない。保育園のように共働き向けではなさそうだった。
そうは言っても、最近は共働き家庭が多くなってきていることから、様々な形態のプリスクールがあるらしい。
それでも、一般的には午前中、もしくは1時か2時ぐらいまでの短い時間、プリスクールに子どもを預けて就学前の教育を受けさせるというのがスタンダードと言われている。
幼稚園と異なるのは、もちろん使用言語が違うことと、それから、国で学校として認められていないため、費用がかなり高額になる事らしい。
「この費用が高いのが悩ましいところなのよね」とママさんはぼやいていた。
子どもに良い教育を受けさせるためには、お金をかけないとならないというのは分かっていても、普通のサラリーマンの家庭ではちょっと背伸びしすぎている金額だという。
ただ、完全に手が出ないから雲の上の話というほどでもなく、他の事で節約したり、工夫したり、母親も午前中の間はパートタイムで働いたり、何かしらの方法で捻出すれば、決して払えない額ではないというのだ。
幼児期からかかる養育費がグンと上がる、というイメージだろう。
妻はただ「へ~」と聞いているだけだったが、私は、この話に非常に興味をもった。
子どものために、必要な環境を整えてやれるかもしれないと思ったのだ。
妻に任せておくと、家庭学習というのは少々厳しいものがありそうだった。
妻ののんびりした性格では、つきっきりで子どもの学習をサポートしたり、一緒になって何かを学んでいくというのは難しそうだった。
週に1回、1時間程度の英語教室に通わせても、結局は毎日の学習が大切なのであって、復習や予習、反復演習ができない。そうなってくると、うちの子がいずれ付いていくのが難しくなる事は予想がついた。
そういった観点から考えても、プリスクールだったら、平日の午前中は英語漬けになるわけで、英語力を身につけさせるには願ったり叶ったりの環境ではないか。
ママさんは相当色々なことを調べているらしい。
「でもね、プリスクールも一長一短で、逆に日本語がおぼつかない感じになっちゃう子も結構いるんですって。英語漬けの日々を遅らせていたら日本語と英語がこんがらがっちゃって、母語である日本語で文章を組み立てる力がつかなくなっちゃうって話も出てるんだそうよ。それはそれで怖いわよね~」
と、そんなような事を言っていた。
しかし、これは、家庭できちんと日本語での会話が成立していれば問題ないらしい。
ハーフのお子さんなどによく起こる現象で、プリスクールやインターナショナルスクールに通わせて、更に父親が英語圏のネイティブで母親が日本人で英語がペラペラという場合、母親が英語で父親と会話してしまうと、子どもの生活の大部分を英語が占めることになる。そうなると、日本語が苦手な子になってしまう。
両親が日本人で、通常家の中には日本語しか飛び交っていない状態ならば、その心配はなさそうだ。
メリットやデメリットを聞かされたが、やはりどう考えてもメリットの方が大きい。
というか、メリットの魅力が強すぎて、デメリットはどうにでも乗り越えられるような気がしてきていた。
デメリットの部分を押してもプリスクールに通わせたいという思いが大きくなった。
ママさんにお願いして、プリスクールの説明会の情報を送ってもらうことにした。
ママさんは一瞬「本気なの!?」という表情を見せたが、快く情報を送ってくれた。
そして私は面倒くさがる妻を連れてプリスクールの説明会に行って来た。
話を聞くとますます興味が湧いたし、ますます息子を通わせたくなった。
英語が身につくというだけではなく、アメリカの幼児教育理念に基づいた教育方針が、とても魅力的だったのだ。
大自然の中でおこなうキャンプや、日本とアメリカ、そして他の国のものもあわせて、年間行事を大切にして毎月なにかしらの季節めいたイベントを行うことや、芸術に沢山触れさせて感性を育てるというプログラム内容や、スポーツも集団行動というよりも個々の開放に重きを置いた内容で、のびのびと自分に素直でまっすぐな人間に育ちそうな教育方針だった。
また、多国籍な子どもたちが通ってくるため、毎日国際交流ができる環境でもある。
日本で暮らしている外国人の子どもも通っているため、日本語のできない子どももいて、英語で喋るしかないというのも貴重な経験になるし、外国人の家族と仲良くなれば、何か異文化交流体験のような形でホームパーティーに招待されたり、逆に日本の伝統芸能を一緒に鑑賞したり、そういったことができるようになるかもしれない。
そして、日本で暮らしている外国人という事は、かなり優秀な方々という事だ。大使館関係だったり、外資系企業の駐在員だったり、素晴らしい家庭の子どもたちが通ってきているに違いなかった。そのようなご家庭と繋がりを持てるようになるというのも、子どもにとっては素晴らしい事だった。
このように魅力が満載のプリスクール、これはなんとしても通わせたい、そう思った。
妻も「良い環境だね~」と言っており、費用面でいけそうだったら、ぜひ息子を通わせたいと乗り気だった。
あとは私ががんばって働けば、息子にこの素晴らしい環境を与えてやることができる。
私はついに、息子をプリスクールに通わせる事を決意した。
他の習い事を習わせてやれなかったり、旅行に出かけることができなくなってしまったり、多少の我慢はしかたなかった。それだけの覚悟を持って決めた事だ。後悔はまったくしなかった。
妻にも、不満がでないようによく説明し、自分の熱意も話して聞かせた。妻も二つ返事で快諾してくれた。
かくして、息子をインターナショナルプリスクールに入学させる事となった。
平日の朝から2時まで預かってくれるスクールで、お昼ご飯はお弁当を持参させることになっていた。
アメリカ系の子どもたちは、本当にテレビなどで見たとおり、スナックやリンゴなどをもってきていたため、妻は「弁当作りが本当にラクで助かる」と言っていた。
まさかチップスやスナックをつめて持たせているんじゃないだろうな、とヒヤリとしたが、そういう意味ではなく、可愛いキャラ弁を作る必要がなくてラクという意味だった。
サンドイッチだけでも、のり弁当に冷凍食品のおかずでも、息子はおいしく食べてきてくれた。
妻も家計を気にして、午前中はパートタイムで働きに出てくれるようになった。
これは正直ありがたかった。自分が通わせたいと強く主張したため、「費用捻出のために働いてほしい」などとは言えなかったのだが、妻は「私たちみんな家族じゃないの。私だって少しぐらい家族貢献したいわ」と言ってくれた。
おっとりしていても、このあたりの考えがしっかりしているのはさすがだ。私は感謝して妻にパートに出てもらった。
息子を迎えにいく時間まで働いて、午後は息子を迎えに行き、帰宅し、家事をやりながら息子と積極的に日本語で会話してくれていた。
プリスクールに通い始めて半年ほど経ち、息子が友だちを呼びたいと言いだした。
しかもその友だちは、ご両親がイギリス人だという。
「だいじょうぶだよ。パパもママも日本語ペラペラだから」
お友だちにそう言われて、息子はうちに連れてきたいと言ったようだ。
妻も私もよろこんで、招待する準備に走り回った。
息子を通じて我々も国際交流体験ができているような気分になった。
招待した当日は、とても楽しかった。
イギリスの色々な話を聞かせてもらい、息子から「いつか連れてって!」とねだられ、私たちも行きたくなり、お友だちのご両親は逆に妻が作った和食を大変喜んでくれて、今度奥様に妻がちらし寿司と吸い物を教える約束をしていた。
ご主人も奥様も本当に日本語が上手で、日本語を勉強しに日本に留学した時に出会ったのだという。
家でもプリスクールでも英語で話す息子さんは日本語があまり得意ではないが、「小学校はインターナショナルスクールに通わせようと思っていて、その関係でプリスクールから通わせる事にしたんです」とおっしゃっていた。なるほど、そこも見据えての選択だったわけだ。
うちは家計的にインターナショナルスクールに入学させるのは難しいかもしれないな、と思いながらも、もし息子がその道を望んだら、間髪入れずに「いいぞ」と言えるよう、ますます頑張って働かなくてはな、と気合を入れなおした。


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